INTERVIEW
警察官の父に、釜石地検検察庁に勤める母。この両親の元、長男として釜石市に生まれた。
両親共に転勤族だったので、初めての引っ越しがわずか生後3か月。これを期に、幼稚園2回、小学校4回、中学校で2回の転校を経験した。
この通り転校が多かったのもありタイミングも悪かったのだろう。中学時代に英語の複数形を習ったことがない、と記憶している(笑)そのエピソードとして、北上から盛岡の中学校へ転校してすぐの英語のテストで、100点満点中わずか2点。残りの4科目はほぼ100点満点が取れたけれど、英語だけがとにかくひどかった。以来、英語がトラウマとなり、英語に対する苦手意識がその後の高校、大学まで後を引きずってしまった。
盛岡一高に入学した時は、遠い親戚でもあった教頭先生(英語の担任)から、余りの英語のできなさに「俺が英語を教えてやるから、毎日昼休みに来なさい」と言われたが、弓道部での昼練習を理由に行かなかった。
英語をもう少し真面目にやっていれば、人生が変わったかもしれないと、今も思っている。だから今、ネットやスマホを使って独学で勉強をしている。
幼少時代からの転校の多さから、“この場所がふるさとだ”という感覚がない。 転校が無かったのは、高校時代だけ。だからだろう。滝沢市に定住した今は、滝沢には思い入れがとてもある。愛着があるのは、滝沢、盛岡、北上、釜石の順番。 転校が多い中で良かったこと?人に柔軟に合わせられるといった点かもしれないね。
相変わらず勉強はしなかった。東京で1年間浪人し、法政大学の法学部に入学したが、当時は学生運動が盛んで、学校はほとんど行かなかった。試験はレポート提出くらいで、ゼミも無いし、卒論も書いたことがないと記憶している(笑)東京で過ごす中、遊ぶ場所としてはいいけれど、ここで暮らすのはどうかとの思いが募り、地元(岩手)に帰ろうと思った。
就職活動は、テレビ局のアナウンサー採用試験も受けた。20名程残った最終試験で、ニュースのアナウンス原稿を読む際、あまりにも活舌が悪くて落ちてしまった。採用試験を受けているとき、幼少期の転勤の多さが頭の隅にあり、転勤の多い銀行へは就職せず、盛岡信用金庫に入庫した。転勤があったとしても、市内店舗と本部だけと聞いていたのも決めてだった。父親と同じ警察官を選ぶ道は、1ミリもなかった(笑)
入庫後は、渉外係、窓口テーラー、融資係、電子計算課を経験した。今でもパソコンが得意なのは、電算課にいた4年間の経験が生きているから。 特にも電子計算課では、半年間仙台のコンピュータ会社に研修に行き、コンピュータプログラムの組み方を勉強した。プログラミングの才能があったのか、とにかく面白かったし、仕事が好きだった。仙台ではホテル暮らしだったけれど、就業後は仙台駅界隈で食べ歩き、最高だった。
父親が釜石警察署長の時、突然54歳で早期退職し、現在の東陵総業を釜石市に起業した。
その父親の仕事が忙しくなってきたこともあり、33歳の時、9年間務めた信金を退職し、東陵総業滝沢営業所長として引き継いだ。当時営業所の従業員は30-40人くらい。
はじまりは、父親が携わったサンルート釜石の清掃・ビルメンテナンス業務だった。
40年前の当時、釜石にはホテルもそれほどなく、長期滞在を可能とさせるため、ホテルベットのリース、各種衛生用品の備品も取り揃えるようにした。 その後2年おきに北上、江刺にホテル進出をした。
その後警備業にも進出したのは、父親が元警察官ということもあったから。
父親の性格(大雑把なところ)と、好景気時代の後押しもあって、イケイケなところもあったと思う。判子一つで借金もたくさんしてきてね。 逆に自分は、金融機関時代の知識、経験を活かし、資金繰り、ホテル備品リースの段取り全てを担当した。父親からは慎重だと言われてきたが、コンサルがやるような細かい仕事は私がタダで行うから、感謝していたと思う。
会社の数字はちゃんと見るが、ヒトを信頼して任せるということを意識してきた。
専務時代から青年会議所にも所属し、土日は全国を飛び回っていた。会社にもいないことが多かった。この時期は、我が子の学校行事や授業参観に一切行ったこともなかったから、妻は、“うちは母子家庭”という認識だったと思う。
仕事に関しては、全体を把握しているけれど、仕事の細かいところまでは関与しない。 普段居ないから、補佐してくれる人がしっかりやっている。逆にそれが良かったのかな。最後の責任はとるけれど、うまくまわっている内は、知らないことで偉ぶって口を出すより、任せたほうがいいい。
現在も、釜石の東陵総業は弟に任せている。釜石本社へはここ2年に1回ぐらいしか行かない。 北上営業所も義理の息子に任せていて、1か月に1、2回行く程度。
コロナの影響で良かったこともある。
毎週月曜日9時から、ネット会議(zoom)が定着したこと。
営業所まで行かなくても業績は分かっているから、今後の方針もそこで話せば何も問題はない。
形(会社)を作ったのは父親だけれど、2代目となり経営を引き継ぎ苦労もした分、自負はある。
どの会社でもそうだろうが、ずっと順風満帆なんてことはありえない。
仮に時間が10あるとしたら、本当にいい時なんて1か2。なんとなくいいが2か3。残りは全部大変。
あの東日本大震災もあったけれど、その後のこのコロナ感染拡大など、世の中は本当に何が起こるか分からない。
民間企業は本当に毎日が非常事態と隣り合わせ。どの商売もそうだと思う。
外国人雇用を進めている。
東部総業(警備業)は法制面でなかなか大変だが、地域に根差した企業として頑張っていかなければいけない。 東陵総業としては、宮城県の大衡村(おおひらむら)のトヨタ自動車東日本グループの子会社EJサービスの関連で、東北地区の安全協力会の会長をやっている。自社としても本社地区でやりたいと考え、今後は宮城県への進出を考えている。
総会の2日前に、前会長から会長を打診された。まさに青天の霹靂だった。 当時51か52歳と若く、私でいいのかと思ったが、前会長より「議員も一回やっているし、お前しかいない。」と言われ決断した。 当時の岩泉商工会の会長に次ぐ、2番目に若い会長になった。
様々な会員さんがいる中で、本会自体は風通しが良く、いい商工会だと思っている。 理事のみなさんも理事会で活発に意見を言ってくれることもそう。 特に青年部が部員数150名を超え、活発に育ってきていることは、本当にありがたい。 職員も自発的にやってくれるし、女性職員が増えたことも、風通しの良さに繋がっていると思う。
県内で最も後発の商工会でありながら、会員数は870社と県下一多くなっている。 規模は小さくても素晴らしい商工会、伝統ある商工会などいくつもあり、かなわないところもあるけれど、一番規模が多くなった商工会として、他の商工会から、“滝沢独自の良いことをやっているな”という商工会に育てたい。 例えば、本会が先駆けとなったパワーポイントを使用した総会も、そのひとつ。 今後、コロナ禍による社会への影響によって、商工会は正念場を迎えることが予測される。 一番大事なのは会員ファーストで、職員にはやりがいをもって働いてほしい。 失敗してもいい。誰も間違わない人はいない。仕事は、まさにチームプレイなのだから。