阿部 正喜
たきざわのひと takizawanohito
File 001
有限会社東部総業
阿部 正喜
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有限会社東部総業
代表取締役
阿部 正喜
滝沢市商工会 会長、岩手県商工会連合会 副会長
公開日:

はじめに

今回社長インタビューを受けて頂いたリーダーは、東陵総業株式会社、有限会社東部総業の代表取締役社長の阿部正喜さんです。 昭和56年に釜石市で創業以来、ビルの設備の保守管理や清掃からはじまり、その後、保安警備業務、ホテル・宿泊施設の経営、人材派遣、LED照明器具販売、クリクラ宅配水、土木・建設業など、さまざまな事業を展開されています。

「お客様の想いを第一に考える企業でありたい。」との思いから、釜石、滝沢、北上、のそれぞれの地域ニーズにあった市場を開拓してきた阿部社長は、創業者を父に持つ2代目。創業家に生まれたご自身のことや今後の展望についてじっくりお話を伺いました。
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INTERVIEW

どのような子ども、学生時代を送ってきたのかをお聞かせ下さい。

警察官の父に、釜石地検検察庁に勤める母。この両親の元、長男として釜石市に生まれた。
両親共に転勤族だったので、初めての引っ越しがわずか生後3か月。これを期に、幼稚園2回、小学校4回、中学校で2回の転校を経験した。 この通り転校が多かったのもありタイミングも悪かったのだろう。中学時代に英語の複数形を習ったことがない、と記憶している(笑)
そのエピソードとして、北上から盛岡の中学校へ転校してすぐの英語のテストで、100点満点中わずか2点。残りの4科目はほぼ100点満点が取れたけれど、英語だけがとにかくひどかった。以来、英語がトラウマとなり、英語に対する苦手意識がその後の高校、大学まで後を引きずってしまった。 盛岡一高に入学した時は、遠い親戚でもあった教頭先生(英語の担任)から、余りの英語のできなさに「俺が英語を教えてやるから、毎日昼休みに来なさい」と言われたが、弓道部での昼練習を理由に行かなかった。 英語をもう少し真面目にやっていれば、人生が変わったかもしれないと、今も思っている。だから今、ネットやスマホを使って独学で勉強をしている。
幼少時代からの転校の多さから、“この場所がふるさとだ”という感覚がない。 転校が無かったのは、高校時代だけ。だからだろう。滝沢市に定住した今は、滝沢には思い入れがとてもある。愛着があるのは、滝沢、盛岡、北上、釜石の順番。 転校が多い中で良かったこと?人に柔軟に合わせられるといった点かもしれないね。

高校卒業後は東京の大学へ進学されていますね。どのような学生生活をおくられましたか?

相変わらず勉強はしなかった。東京で1年間浪人し、法政大学の法学部に入学したが、当時は学生運動が盛んで、学校はほとんど行かなかった。試験はレポート提出くらいで、ゼミも無いし、卒論も書いたことがないと記憶している(笑)東京で過ごす中、遊ぶ場所としてはいいけれど、ここで暮らすのはどうかとの思いが募り、地元(岩手)に帰ろうと思った。
就職活動は、テレビ局のアナウンサー採用試験も受けた。20名程残った最終試験で、ニュースのアナウンス原稿を読む際、あまりにも活舌が悪くて落ちてしまった。採用試験を受けているとき、幼少期の転勤の多さが頭の隅にあり、転勤の多い銀行へは就職せず、盛岡信用金庫に入庫した。転勤があったとしても、市内店舗と本部だけと聞いていたのも決めてだった。父親と同じ警察官を選ぶ道は、1ミリもなかった(笑)

入庫後は、渉外係、窓口テーラー、融資係、電子計算課を経験した。今でもパソコンが得意なのは、電算課にいた4年間の経験が生きているから。 特にも電子計算課では、半年間仙台のコンピュータ会社に研修に行き、コンピュータプログラムの組み方を勉強した。プログラミングの才能があったのか、とにかく面白かったし、仕事が好きだった。仙台ではホテル暮らしだったけれど、就業後は仙台駅界隈で食べ歩き、最高だった。

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御社の創業者は阿部社長のお父様と聞いております。 どのような経緯で東部総業へ入社されたのか、お聞かせください.

父親が釜石警察署長の時、突然54歳で早期退職し、現在の東陵総業を釜石市に起業した。
その父親の仕事が忙しくなってきたこともあり、33歳の時、9年間務めた信金を退職し、東陵総業滝沢営業所長として引き継いだ。当時営業所の従業員は30-40人くらい。

さまざまな事業展開(警備、ホテル、建設・土木事業、清掃・メンテナンス等)を拡大していった経緯について、お聞かせください。

はじまりは、父親が携わったサンルート釜石の清掃・ビルメンテナンス業務だった。
40年前の当時、釜石にはホテルもそれほどなく、長期滞在を可能とさせるため、ホテルベットのリース、各種衛生用品の備品も取り揃えるようにした。 その後2年おきに北上、江刺にホテル進出をした。 その後警備業にも進出したのは、父親が元警察官ということもあったから。

父親の性格(大雑把なところ)と、好景気時代の後押しもあって、イケイケなところもあったと思う。判子一つで借金もたくさんしてきてね。 逆に自分は、金融機関時代の知識、経験を活かし、資金繰り、ホテル備品リースの段取り全てを担当した。父親からは慎重だと言われてきたが、コンサルがやるような細かい仕事は私がタダで行うから、感謝していたと思う。

社長になられて20年が経ちました。この間どのようなことを意識してこられましたか。

会社の数字はちゃんと見るが、ヒトを信頼して任せるということを意識してきた。
専務時代から青年会議所にも所属し、土日は全国を飛び回っていた。会社にもいないことが多かった。この時期は、我が子の学校行事や授業参観に一切行ったこともなかったから、妻は、“うちは母子家庭”という認識だったと思う。

仕事に関しては、全体を把握しているけれど、仕事の細かいところまでは関与しない。 普段居ないから、補佐してくれる人がしっかりやっている。逆にそれが良かったのかな。最後の責任はとるけれど、うまくまわっている内は、知らないことで偉ぶって口を出すより、任せたほうがいいい。

現在も、釜石の東陵総業は弟に任せている。釜石本社へはここ2年に1回ぐらいしか行かない。 北上営業所も義理の息子に任せていて、1か月に1、2回行く程度。

コロナの影響で良かったこともある。 毎週月曜日9時から、ネット会議(zoom)が定着したこと。 営業所まで行かなくても業績は分かっているから、今後の方針もそこで話せば何も問題はない。
形(会社)を作ったのは父親だけれど、2代目となり経営を引き継ぎ苦労もした分、自負はある。 どの会社でもそうだろうが、ずっと順風満帆なんてことはありえない。 仮に時間が10あるとしたら、本当にいい時なんて1か2。なんとなくいいが2か3。残りは全部大変。 あの東日本大震災もあったけれど、その後のこのコロナ感染拡大など、世の中は本当に何が起こるか分からない。 民間企業は本当に毎日が非常事態と隣り合わせ。どの商売もそうだと思う。

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今後御社が力を入れていきたいことを、お聞かせ下さい。(地域から世界へ)

外国人雇用を進めている。
東部総業(警備業)は法制面でなかなか大変だが、地域に根差した企業として頑張っていかなければいけない。
東陵総業としては、宮城県の大衡村(おおひらむら)のトヨタ自動車東日本グループの子会社EJサービスの関連で、東北地区の安全協力会の会長をやっている。自社としても本社地区でやりたいと考え、今後は宮城県への進出を考えている。

滝沢市商工会に加入したきっかけ、商工会長に就任された時のお気持ちをお聞かせ下さい。

総会の2日前に、前会長から会長を打診された。まさに青天の霹靂だった。 当時51か52歳と若く、私でいいのかと思ったが、前会長より「議員も一回やっているし、お前しかいない。」と言われ決断した。 当時の岩泉商工会の会長に次ぐ、2番目に若い会長になった。

滝沢市商工会の会長として心がけられていることはありますか?

様々な会員さんがいる中で、本会自体は風通しが良く、いい商工会だと思っている。 理事のみなさんも理事会で活発に意見を言ってくれることもそう。 特に青年部が部員数150名を超え、活発に育ってきていることは、本当にありがたい。 職員も自発的にやってくれるし、女性職員が増えたことも、風通しの良さに繋がっていると思う。

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今後滝沢市商工会をどんな組織にしたいと考えられていますか?

県内で最も後発の商工会でありながら、会員数は870社と県下一多くなっている。 規模は小さくても素晴らしい商工会、伝統ある商工会などいくつもあり、かなわないところもあるけれど、一番規模が多くなった商工会として、他の商工会から、“滝沢独自の良いことをやっているな”という商工会に育てたい。 例えば、本会が先駆けとなったパワーポイントを使用した総会も、そのひとつ。 今後、コロナ禍による社会への影響によって、商工会は正念場を迎えることが予測される。 一番大事なのは会員ファーストで、職員にはやりがいをもって働いてほしい。 失敗してもいい。誰も間違わない人はいない。仕事は、まさにチームプレイなのだから。

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