たきざわのひと takizawanohito
File 012
水道屋株式会社
鍵本 桂
File 012
水道屋株式会社
代表取締役
鍵本 桂
第13代滝沢市商工会青年部 筆頭副部長
公開日:

はじめに

■水道屋株式会社
所在地:〒020-0611 岩手県滝沢市巣子152-125
連絡先 TEL:019-688-2592 FAX:019-681-7230
■経営理念
既存の建設業形態を改善し 若き人材を育て安全で安価な水を供給する事で社会貢献する
■社  訓
日々成長、日々進化
■沿  革
平成21年3月 ケイズテック創業
平成23年12月 株式会社組織に改めるに際して社名変更
平成23年12月 水道屋株式会社設立、代表取締役に就任
平成27年3月 建設業許可取得
平成28年3月 経営革新計画企業認定
平成29年2月いわてビジネスイノベーションアワード 経営発達部門 特別賞、優良賞W受賞
平成30年1月 配管洗浄部門開始
平成30年6月 基礎工事・外構工事部門開始
令和 6年3月 現在に至る。

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INTERVIEW

どのような子どもの頃や学生時代を過ごされてきたのか、お聞かせ下さい

生まれは盛岡市中央通りで、4歳まで住んでいました。両親が滝沢村(現在の滝沢市)で家を建てるのに伴い引っ越し、そこから41年ずっと滝沢市に住んでいます。浮気せずに(笑)ずっと拠点は滝沢市民です。
子どもの頃の話ですね。
私には子どもが4人いますが、最近の基準で言われる発達指標で言うと、私はADHD(注意欠陥多動症)だと診断されていた可能性があります。発達障がいではないのかもしれませんが、基本言うことは聞かない(笑)自由奔放、放浪癖もある。なんと言うか“右向け右”が苦手でした。小学校入学と同時にある、皆と一緒に~とかそういう“右向け右”が。ただ私は、「右を向く必要性があれば」ちゃんとやります。しかしながら、右向け右の練習をするって言われてしまうと、「なんで今それをやらなければならないのか?」という思いが先に来てしまうので、明確で納得のいく理由がないものは“やりたくない”ってなっていました。反抗精神というか、まぁ面倒くさい子どもと言うかね。それが先に出てしまい...。
分かりやすい例えだと、“髪を染めるのはいけません”って校則にある。しかし、私は髪を染めることに憧れていて、ダメだよって言われたことに「なぜ?」って疑問が強く、先生からは「規則だから」と言われてしまう。そこで反抗精神の強かった私は「法律違反ではないよね?何なら先生だって染めているよね?」って。なぜ髪を染めることがダメなのかを、きちんと答えられる先生が居なかった。規則、校則で決まっているからダメとは言うけれど、私の中の「なぜ?」に納得できる返答をもらえず、ずっと反抗していました(笑)
そういう事もあり、最終学歴は盛岡工業高校卒ですが、中学校を卒業したら一刻も早く社会に出て、働く気でいたため、勉強せずに遊んでばかりいました。中学校3年生の9月くらいに、三者面談で担任の先生から「鍵本、将来どうするんだ?」って聞かれ「先生俺は働きます」って言おうとしたら「行ける高校ないぞ」って先に言われてしまい。私は高校に行く気が無かったのに、その先生の言葉にイラっとして(笑)「はぁ?こっちは働くつもりだ」と、言い返えそうと思いましたが、「行ける高校が無い」って言われた事が悔しくて、そこから猛勉強しました!
当時私の学力で行ける高校は無かったが、9~12月に猛勉強した甲斐があり、ある程度の点数が取れるようになった事から、1月の願書を出す前に「滑り止めで盛岡中央高校の普通科を受験し、合格する事が出来たら、自分の行きたい高校を受験させて欲しい」と相談し受験したところ、盛岡中央高校に合格する事が出来ました。
その際に先生から「今の鍵本の成績だったら、一関工業高等専門学校にも合格できるぞ」と言われ、3ヶ月前は「行ける高校が無い」と言った先生が手の平を返すように(笑)。しかし、一関工業高等専門学校を受験し仮に合格したとしても、地元の友達と会う機会が減るのが嫌で、同じように専門的な知識を学べる盛岡工業高等学校なら、男臭そうだし男子校っぽいし楽しそうだなと思い、盛岡工業高校の土木科を受験し合格、晴れて入学となりました。

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高校生活では、数多くのアルバイトを経験され「水道屋になろう!」と人生を決めた出会いがあったとお聞きしました。

高校に入学しすぐにアルバイトを始めました。早く社会に出たい気持ちが強いのと、バイクが欲しくて乗りたくて。免許取得やバイクを購入するお金は、バイトで貯めました。だから親も反対のしようが無かったようです。自分でバイトしてお金貯めてバイクの免許も取りに行くし、バイクも買った。
アルバイトも様々な職種を経験しました。ガソリンスタンド、ラーメン屋、土方仕事、とび職の見習い、厨房搬入。この厨房搬入のアルバイトは、飲食店の厨房機器を入れ替える仕事で、飲食店が閉店した夜の11時頃から夜中の2~3時まで、冷蔵庫や流し台などを全部出し、新たな機器を入れ替える体力勝負のバイトでした。そのバイトの休憩時間に、水道工事会社の方と話をする機会が結構あり、16歳の私にその会社の人が「水道工事の会社っていいぞ」って言うのです。「え、何でですか?」と聞き返したところ「水道工事の会社は水を扱う業種、水は代替品が無く、一生業種としてなくならない仕事だ。」って話してくれて。その言葉に16歳の私は胸をうたれ「俺、水道屋になろう」とその時決意しました。だから、私の人生は16歳で決まったと言っても過言ではないです。

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29歳で独立、起業に到った経緯を教えてください

高校卒業後、水道工事会社へ就職し4年間務めていた会社で、一緒に働いていた先輩の独立に伴って引っ張ってもらい、最初は2人で一緒にやっていました。経験を積み自分でも自信がついてきた頃「こういう風にやった方が、会社として良いのではないか」と提案するようになったが、そこまでやらなくて良いと言われ、私の提案が採用されないことが続き、最終的に「自分の思い描く会社を作るには自分で作ろう!」と決めたのが独立のきっかけで、29歳の時でした。
起業してすぐ労働保険の関係で相談がしたく、商工会に入会しました。
創業して15年経ち、お陰さまで、社員も増えてきました。
この15年は、本当に色々ありました。巣子振興会の諸先輩方や商工会の方から「会社としてやっていくうちに、売上1億円と従業員10名の壁があると言われた事がありました。お陰様で、その売上1億円も順調に越したし、私には関係のない事かな?とやり過ごしていましたが、従業員が15名の時にガタガタきてしまって。新入社員と以前から働いている従業員が対立し…。社員を増員し、それに比例して色々な問題に直面した時、「あぁ、これかぁ」っていうのを実感しました。
創業当初1人で始め、仕事が増えるにつれ、私に何かがあれば取引先に迷惑をかけてしまう、誰か雇わないと現場が止まってしまうという思いから、従業員を増やして組織を作り上げてきました。次に私が指示を出せなくなったら、指示を出せる従業員がいないと思い、私が今やっている業務を、少しずつ分担して従業員に覚えてもらうよう業務を振ったら、従業員から「こんなに業務が増えるなら、独立する」と。その当時は私も従業員も、会社で顔を合わす時間も減っていた頃だったので、理由も分かっていました。
社長は、やれ商工会青年部の研修だ、イベントだと言って3日も帰ってこないなど不満を抱えていた。私は地域活動の時間を作る為、従業員の知らぬところで、朝早く出社し、4~7時までその分の仕事をしてから、青年部や他の研修先に行き、従業員の退勤後に会社へ行き夜中まで仕事をすることも多々あった。従業員の出退勤前に業務をするから、社長はいつも会社に居ないって映っていたようだけど。しかし、表面しか見えない従業員には「社長っていいよなぁ」ってなるわけで (笑)そうなると、だったら自分でやった方が儲かるんじゃないか?ってなるよね。従業員が15名になった頃、入社する者退職する者と入れ替わり、起業13年目で初めて赤字決算となった。

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まさに従業員10名の壁にぶち当たった時、そのピンチをどのように乗り越えたのでしょか

残った従業員がとても頑張ってくれて、各個人が生産性を高めるために、自らが働き方改革を行ってくれた!素晴らしい人材が残ってくれたと、本当にいつも感謝しています。少ない人数でも同じ仕事量をこなせると分かった今は、元請けからの電話連絡は私ではなく、直接従業員と商談できるよう、業務改善しました。
コロナ禍が明け取引先との飲み会も増えてきたが、従業員に行ってもらうようにしました。このハウスメーカーの飲み会には、君が行ってくれる?こっちの取引先には誰々に行ってもらいたいっていうのを割り振りして。飲み会にも積極的に従業員に出てもらうようにしたら、現場監督や営業マンと従業員が仲良くなって、私への電話連絡が減り、従業員で業務を廻し、私も他に使える時間が増えました(笑)
従業員も、相手の建設会社とうまくコミュニケーションを取りながらやっているから。現場だけじゃなくて、営業も出来る従業員に育ちました。現在少しずつだけど積算や見積なども教え、私が会社にいなくてもできる体制を、作れるようになってきました。
2~3年前の従業員独立問題で、辞めずに残っていたとしても、多分今の様に自分が不在となる状況があったら、何かしらの問題が起きて彼らは退職していたと思うから、結果的に会社が自立する体制が出来たのは、独立問題があり良かったとも考えます。去年、ペットの里でおこなわれたオールいわて雪フェスティバルで雪像を作って欲しいと依頼され雪像を1基製作しました。その時に退職せず残った従業員が自分達でどういった雪像を作ろうかとか、楽しみながら製作している様子を眺め、「あれ、ストーミング(混乱期)抜けたな」と。その時に、何かこう会社が回復するっていう兆しが見え、それがターニングポイントであったね。以前の会社の雰囲気は「雪像作るのなんか水道屋は関係ないじゃないか。社長、またなんなんすか」って、そういう声も上がっていただろうし、実際に滝祭準備もそうだった。しかしその時は、自主的に従業員同士が話し合いながらの雪像づくりを見ていたら、「あ、このまま任せちゃおう」って、会社の雰囲気も良くなったね。

今後御社が力を入れていきたいことや目指している目標などはありますか?

市議会議員として、会社を抜けることも多々あるけれど、従業員のおかげでうまい事回っていると思います。これからは、女性スタッフもいるから、新規事業に取り組もうと思っていました。
今まで通りの水道事業はもちろんのこと、経営理念の【既存の建設業形態を改善し若き人材を育て、安全で安価な水を供給する事で社会貢献する】を体現していきたいです。ただ、今は職人不足が深刻で、我々水道工事は、元請けになりにくい業種なので、それを改善しようと、県の経営革新計画で土木建築と一貫した施工体制の事業計画も策定しました。その他に基礎工事、リフォームも手掛けているけれど、家を建てる人・リフォームをする人が少なくなってきちゃうと、これだけハウスメーカーもあり建設会社もあると、パイの取り合いにしかならないなら今後どうするか?しかしながら今更公共工事で業績を伸ばすことが議員の立場上難しい。今考えているのは【健康事業】で、様々な構想を練っている状況です。もし、この構想が実現した時には、みなさんに広くPRしていきますので、楽しみにしていてください!

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