たきざわのひと takizawanohito
File 006
株式会社 関商会
関 晃宏
File 006
株式会社 関商会
代表取締役
関 晃宏
第12代滝沢市商工会青年部長
公開日:

はじめに

●会社概要

名称 株式会社関商会
設立  昭和49年3月
資本金 2,000万円
事業内容 内外装工事(設計施工管理、インテリアデザイン)
建築一式工事、店舗、改修工事(設計施工)
不動産賃貸業
小規模太陽光発電事業
所在地 岩手県滝沢市鵜飼狐洞1-155

■沿   革
昭和45年5月東京都板橋区において関内装として個人創業
昭和49年3月資本金300万円を以って株式会社に改め、現商号に変更
昭和55年5月岩手県滝沢村に本社移転
昭和56年7月資本金600万に増資
平成04年8月資本金1,000万円への増資
平成29年度2月に現在の場所に本社を移動
平成30年2月に資本金2,000万円への増資
平成30年度に建設業許可を一般から特定に変更

関 晃宏

INTERVIEW

どのような子どもの頃や学生時代を過ごされてきたのか、お聞かせ下さい

生まれが、実は東京の成増(板橋区)。まだ父が独身だった頃、こっち(岩手)に仕事が余りなくて、建設業を縁者が東京でやっていたのもあり、丁稚奉公みたいな形で東京に出てきた。そこで、「関内装」を最初は始めた。で、僕が生まれたのが昭和54年。実際に暮らしたのは2歳頃までで、その後岩手に戻って来た。だから、生まれは東京だけれども、育ちはほぼ滝沢になるんだよね。父が元々滝沢出身の人間だったので。バックボーンはそんな感じですね。本当に地元(滝沢の鵜飼)一筋。幼稚園は、ふじなでしこ幼稚園。(会社の)目の前(笑)。小学校は鵜飼小学校、滝沢南中学校、高校は盛岡北高等学校。自宅から自転車で全て通えてしまう距離なんだよねぇ。
自分は3人兄弟で、上に姉がいて僕が真ん中の長男で、弟がいて。ちなみに弟は、今会社で専務をやっていて。姉は全く別の職種、獣医師を育てる側の先生をしている。
僕ね実は、子どもの頃泳げなかったんですよ。水恐怖症で。それを見兼ねた母が、スイミングスクールへ強制的に申し込んじゃって、なぜか兄弟全員を。だけど、そこで覚え始めたら面白くなって、育成コースまで級が上がっていった。だけど、日曜日とか休日にまで練習をするのが嫌で、それで辞めたんだよね(笑)
その後、“ポニースクール岩手”(現:馬っこパークいわて)に子ども会で、動物の世話をしながらキャンプをするという行事があって、そこでの体験にすっかりハマってしまってね。乗馬ってお値段が高いイメージがあるでしょう。ただ、当時は県の施設っていうこともあって安くて。しかも、そこでボーイスカウト的なことを学びながら、乗馬も学べるっていうのがあり、入会させてもらった。そこでは、ジュニアメンバーズというのがあって、そこの3代目のリーダーを経験したのも、今の基にもなっているなぁと感じていてね。個性の強い子ども達が集まっていたから(笑)年齢も下は小学校2年生から、上は中学3年生だったし。ちなみに初代リーダーが僕の姉で、2代目が商工会職員の松岡さんなんですけどね。実は、子どもの頃からよく知っているんですよ、色々とお互いに(笑)それと、当時の乗馬の先生からよく言われたのが、乗り方が荒いタイプだって。でもそれが逆に自分では良かったところもあって。物怖じしないというか。安比の乗馬クラブや岩手大学の馬術部など大人も一緒に出る大会で、自分が得意だった“ジムカーナ”という競技があって。これは決められたコース内を速いタイムで回りきるっていう競技内容なんだけれど、優勝したこともあった。結構やんちゃと言うか、活発な子ども時代を過ごしていたかな。

関 晃宏
高校卒業後はどのような道に進まれたのですか?

矢巾町の岩手県立産業短期大学校へ。しかもそこの建築科の一期生なんですよ。他にも、岩手県内で建設関係の学校はあったけれども、どちらかというと、都市計画や設計デザイン的な学科ばかりで、設計と施工をバランスよく学べる学校が無かった、そういった事情もあり、家業が工務店なので為になると思い入学を決めた。
大学卒業後に、そのまま㈱関商会には勤めなかった。学生時代に、当時は現場にも入れたから、材料の荷揚げだったり、施工を手伝ったこともあったけれど、あくまでもアルバイトとして。卒業する辺りに、たまたま父の知り合いが、当時弊社のモデルルームや建売住宅の設計デザインを担当していた、ロサンゼルスの設計事務所で(15×15 フィフティーンバイ フィフティーン)お世話になる事になった。子どもの頃から親交もある方だったから社長さんに若い内に様々な経験をしたほうが良いというアドバイスを受け、そこで建築の勉強をしてこいと言われ、ロサンゼルスに行くことに。言葉が分からないから、まずは語学学校に3ヶ月ほど通った。そこからロサンゼルスのダウンタウン、リトル東京のすぐ側にある会社で設計のお手伝いをしながら、学ばせてもらった。就業ビザで行った訳ではなかったから、日本との往復を繰り返して、9か月ほど居たかな。あんなに語学の勉強もしたのに、20年程経ってしまったから結構忘れているけどね、勿体ないよね(笑)
帰国後に、「さぁ就職はどうしようか」となった時に、当時は就職超氷河期というのもあったし、元々小さな子どもの頃から、周りからも「お前は社長になるんだ」と言われてきたから、見事にレールに敷かれたというか、洗脳されたというか(笑)まぁ、使命というのも感じていたから、そのまま㈱関商会に入社した。最初は職人から始めて、ステップアップも兼ねて様々な業務、事務系だったり、営業、施工管理とやらせてもらった。その時に、当時担当していた現場で、工期がなく元請さんにケンカ腰で文句を言っていたら、現場視察に来ていたゼネコンの偉い方の目に留まることがあり、「坊主元気だな、関東で修業をしてみないか?」と誘われ、3年ほど大和ハウス工業㈱に出向した。資格取得するまで帰ってくるなと言われたこともあって(笑)一級施工管理技士という、現場を管理する資格なんだけど必死に勉強したね。それを取得して戻って来たのが、あの東日本大震災の前の年。その際に、目の調子が良くないこともあって、内勤に切り替わって現在に至っている感じかな。ちょっと、変な経歴だよね(笑)

関 晃宏
青年部長時代には新しい事業となる“チャグ婚”を盛り上げましたね!

最初にも話したんだけれど、子どもの頃に夢中になったポニースクール岩手の、ジュニアメンバーズ時代の繋がりで、そこで自分が部長に就任して、最初の青年部のイベント“チャグ婚”で乗馬をやったね。場所も雰囲気も十分に分かっていたし、自分が楽しみながら成長できた場所でもあったから、開催を決めたのもあったんだよね。だから、子どもの頃の体験や経験って、ちゃんとこうして今に繋がるんだなと。チャグ婚を馬っこパークでやると決めた時に、危険性の把握や楽しい企画になるか実際を自分達自身が現地で体験して学ぼうと、事前に青年部員4人位で行ったんだけど、当時の恩師やスタッフは、他の部員には丁寧に楽しく教えるのに、俺には「はい、馬やるから後は自由にやって」ってね(笑)。いくら勝手知ったる馬と言っても、当時に比べたら自分も体重だって増えてるしね。それでも一人で乗ったらさ、馬の方が今度はため息をつくわけ、重いって(笑)懐かしかったけれどね。
地域が元気になるには、若者がまず楽しく元気になれば良い。パートナが見つかり子どもができて滝沢の人口が増えれば、尚更良いと思い企画してました。

関 晃宏
プライベートでのストレス解消法は何ですか?

今はもう乗馬は離れてしまったけれど、別に“鉄の馬”に乗るようになったかな。バイク(笑)コロナになって、出歩けなくなってしまって。ストレスもあり、“さぁどうしようか”となった時に、青年部の歳祝いで後輩達を乗せたそりを、スノーモービルで引っ張るっていうのをやってね。自分の時は滝行だったんだけれど(笑)その時の、スノーモービルを運転した疾走感がなんか愉しくて。自分が過去に乗馬で味わっていたのにも似ていたしね。スノーモービルだと冬だけしか乗れないけれど、バイクだったら雪が降るまでは乗れるから、そこでバイクの免許を取得して、すっかりツーリングが趣味になったね。厳ついアメリカンバイクを購入してね。そこはでも、計画性を持って中古を買ったし、うん(笑)奥さんには内緒で購入してドキドキしてたな、バレてたけど。
後はもう、昔から海釣りが趣味で。ボートを持っている知り合いがいるから、宮古や山田の方にツーリングも兼ねて行くね。渓流釣りをしない理由?・・・熊が恐いから(笑)!!ただ、本格的にツーリングを始めようとした矢先に、目の病気が進行して手術をすることになったから、最近は乗れてないんだよね。ただ、この手術を終えたら、北海道へツーリングに行って、キャンプとかしたいっていう目標があるから、大変な手術も頑張れているかな。子どもの頃に、家族で車で北海道に行ったことがあって、その時の感動が忘れられなくて。

令和3年3月に3代目として家業を継いだことについてお聞かせください

父が創業者で、叔父が2代目。なので、まだ1年ちょっとだね。会長職に叔父が就いて、父は今はオーナー職という通称みたいな役職で、我々の経営に対する相談とか指南とかを担っています。僕より従業員の信頼が厚く優秀な弟が専務職していて背中を預けられる。創業時から、経理は母がやっていて、今後経理の事業承継ということで、弟の奥さんに今は教えていってる形だね。
コロナの影響は、正直あります。世の中の先行きの不透明さがあってどこも設備投資を控える。サプライチェーンがダメになったりとかね。建物の骨が建たないと、我々のような内装業界にも発注が来ない。その分の売上はやはり下がらざるを得ない。だから、この1年は正直すごく不安だった。パンデミックや戦争による経済情勢の鈍化や材料や原油の高騰と混乱。就任初日に、目の手術があったものだから、自分の体調の不安も重なった。その後も、入退院を繰り返しながらだったしね。誰に相談しても、誰も経験したことのない状況になっているから、その中で悩みながらも1年間どうにかこうにかやってきて、従業員34名が一丸となり頑張ってくれたので、無事に決算を終えることが出来た。事業承継のタイミングは最悪だったかもしれないけれど、家族経営の利点である絆を武器に、一致団結をして、非常に良い形で事業承継が出来たとは思う。
親子であっても、経営方針とか考えが違かったり、合わないことも当然ある。嫌だなと思う事もあり、後継者が投げ出したり事業承継しないケースも知り合いの会社でもよく聞く。その中でやはりふと思うのが、会社自体が昭和49年から始めて、自分より少し年上の会社っていうイメージで、自分はどちらかというと物心ついた頃から、会社が実家の隣で両親が仕事をしている姿を見て肌で感じているところもあるので、創業当初からいる従業員が、一生懸命仕事をして社業が大きくなっていって、それで食べさせてもらい育ててもらったという恩も感じている。だから今度は、それを自分が返す番だと思っている。それこそ、創業当時からだから、年齢も70歳超えた方もいるからね。でも、ここまで長く働いてくれるというのは、父がそういう経営をしてきたのもあるから、それは今後も継いでいきたいし大事にしていきたい。社員は“大丈夫かなぁ”って思っているかもしれないだろうけどね(笑)それが今の率直な思いですね。

今後御社が力を入れていきたいことや目指している目標などはありますか?

自分の考えとして、会社と言うものは「続けていく」というのが1番重要だと思っていてね。やはり生業という事になると、従業員の生活基盤もあるので。だから、正直に言うと、僕は会社を大きくすることが目的ではないです。僕の理念としては、皆に必要とされる会社になる。必要とされるというのは、もし地域に必要とされなかったら、当然お仕事には繋がらない。ひいては、お客様にも必要とされなくなる。後は、従業員やその家族にも必要としてもらえる会社にしていきたい。従業員があってこそ社業が成り立つのであって、それを蔑ろにしてしまっては、従業員の数がどんどん減っていってしまえば、もちろん仕事が出来なくなるわけだから、依頼が来なくなり会社自体が立ち行かなくなる。そういった意味でも、いろんな方面から、皆から必要とされる会社にしていきたい。
時代の流れが今は正直とても速い、世界的な情勢も含めて。先を見通すというのが難しい時代。そこを考えると、会社の名前の由来にも繋がってくるけれど、時代にフォーカスして合わせて、変わっていける会社になりたいと思っている。「関商会」は、主軸は内装業、建設業になってはいるけれど、なぜ「関建設」ではないのかと言うと、固定概念に捉われない、内装業・建設業だけではなくて、様々な展開が出来るようにということで、社名が付けられた。まぁ、“何屋さんなのか分からない”とはよく言われるのですけれど、たまたま最初に始めたのが内装業であって、メインを建設業にしたというだけです。関グループという考え方でやっていきたいと思っているから、関商会以外にも、別業態の信友という不動産会社もあって。太陽光発電や過去には、ペンション経営も行っていた。不動産・賃貸業もやっている。時代の変化に対して、自分達が「ここまでいいや?」と思って止めてしまうのは違うと思っているので、そういうことも踏まえて芯は通しながら、柔軟に考えていかなければと思っている。
なので、今は働き方改革とかもあるから、建設業だけに捉われず色々な角度や可能性を探りながら新しい展開を模索中ですね。

関 晃宏
社長個人が目標としていることなどはありますか?

極論を言ったら、そうだねぇ・・・死ぬ間際まで笑っていたいかな。
事業承継のタイミングも考えていくと、どこかで潮時はあるのだろうけれど、父がそうであったように、地域でボランティアなども行っていた背中も見てきているので、事業で地域に恩返しとか貢献もしていきたいい。20代の頃からの夢は、キャンピングカーが欲しくて。うちの奥さんも旅行が好きで。ただ、少し身体が弱いものですから、中々あちこちに行くことが出来ないけれど、引退とかしたらキャンピングカーで全国あちこちを旅して周りたいっていうのはあるね。最後まで、そんな風に楽しく笑っていられる人生を送れたらなぁと思っている。

商工会へ対する要望や想いなどはありますか?

親会である理事会の場での発言とかがね、もっと賑やかであったらいいなぁとは感じるかな。反対・賛成いろんな意見があって当然だし、もっとわちゃわちゃ感があっても良いのかなって。その方が面白いかなぁっていうのはあるね。今の青年部の若い人達が、理事会に上がってきて、その熱量とかで本気でその地域のことなどを、話して議論出来たらすごく良いだろうなぁと。そんな風には感じているね。
滝沢という場所が、生活環境が良い場所で、仕事柄、住宅や事業用で土地を相談されることが多いが用途制限や法の制限で断念することが多く勿体ないなと思うことがある。結果それが原因で廃れていくのではないかと危惧している。育ってきた地域が縮小し元気がないというのは、懸念材料でもある。だから、市役所などの公的機関と商工会が組んで、もっと地域が良くなるように出来たらなとは思っている。
僕たちだけではなくて、僕たちの子どもや孫、その次の世代までもずっと元気な地域であって欲しい。自分が子ども時代のお祭りとか、本当にすごかった。賑やかさもだけど、地域が一丸となって親世代も皆が盛り上げていた。パワーが本当に凄かった。だから自分も子ども心に「特別な日」だったし、それらが続くと思っていた。コロナのことがあったにせよ、知恵と工夫でもって違う形で何か残していきたいとは思っている。今は、地元の商店街がほとんど店がなくなってるからそれが凄く寂しく感じる。そういう地域の火が消えかけちゃってるのかな、と正直感じている。だから、今が踏ん張り時なんだろうなって。だからこそ、官民が手を携えてやっていかないとね。企業と公共団体とのパイプ役みたいに、商工会がなっていければいいんじゃないのかなと思っている。

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