佐藤 正和
たきざわのひと takizawanohito
File 009
工房Pulcini(プッチーニ)
佐藤 正和
File 009
工房Pulcini(プッチーニ)
代表
佐藤 正和
第11代滝沢市商工会青年部 副部長
公開日:

はじめに

【事業内容】
初生雛鑑別師
滝沢産の農産物を使ったお弁当製造と販売

INTERVIEW

どのような子どもの頃や学生時代を過ごされてきたのか、お聞かせ下さい

出身は、高畠ワイナリーで有名な、山形県高畠町。
小さい頃は、父親がスポ少の野球監督をしていて、兄がそれに連れられて一緒にやっていたんだけれど、自分は全く興味が無くてね。ユニフォームを着せられて、佐藤家年賀状には写っていたけれど、一切野球はしていなかった。テレビのドラえもんを見ながら過ごすのが楽しくて。スポーツじゃなくてただ本当にドラえもん(笑)
小学校も2クラスしかない学校だったから、中学も当然そのまま持ち上がり。でも、中学校は部活をしなければいけなかったから、どうしようってなって卓球部へ入部。自分が1年生の時は弱小チームでね。自分も中学校から始めたから、最初は全然勝てなかった。それでも、そこから徐々に順位も上がっていって、県大会にも出られるようになった。ちなみに俺のポジションは”秘密兵器”。秘密のままで終わる”秘密兵器”(笑)
これは後々にも繋がるんだけど、小学校の頃から「海外で働きたい」「外国へ行きたい」っていう思いがずっとあった。東京という都会でもなくて、日本以外の場所で暮らしたいと思った。そうしたら、小学校3年生の時、テレビ局主催の「青少年の船」という、外国に船で行く企画に小学校5年生の兄と一緒に参加出来て。行先はグアム・サイパン。親と離れて暮らす寂しさとか、初めて行く海外に対する不安よりも、船酔いの苦しみの方が大変だったよ(笑)11日間の旅で楽しかったんだろうけれど、船酔いの記憶が戦列に残っているんだよね。

幼少期

高校は、隣の米沢市の高校に入学した。元は女子高で共学になって4年目の高校。
うちの中学からは、自分も含めて3人の男子が入学したんだけど、2人は1年で辞めちゃって。2年次は選択でクラスが変わるんだけど、1年次11人いた男子が2年次には4人になっちゃって。いわゆる「女クラ」ってやつ。もうあれだね、全然違うんだよね。男4人だけだとさ。女子って強いじゃん(笑)だからもう、普段の俺らって本当に影が薄いの。「男子これ持って!」とか、ともするとパシリ扱いに近いようなことも全くなく、ほぼ空気(笑)工業高校に入学した女子がモテモテ!みたいな感覚じゃなかったのよ。体育前に着替えるのも、教室が女子で、俺らが更衣室だったしね。でもいつだったか、何の気なしに俺そのまま教室で着替えちゃったことがあって。女子皆が着替えているのによ。それぐらいの存在感。空気感。そんな感じで3年間過ごしましたねぇ(笑)

高校卒業後はどのような道に進まれたのですか?

一応、進学校を謳っている学校ではあったんだけど、大学の進学に興味関心が全くなかった。
進路をどうするか考えていたとき、父親が当時勤めていた会社を辞めたくなっちゃって、転職するために資格関係の本を買ってきていて。それを自分も年末に読んでみたんだけど、そこでひよこ鑑別師の仕事があるのを知って「あ、もうコレだ」と。しかも、ほとんどが海外に行って仕事をするって書いてあったから「俺はこれになる」って言ったんだけど、両親は大反対。要は、仕事の内容も含めて何だか分からないから。でも、自分も曲げないから、協会に電話をしたり山形で実際にやっている人の話を聞いたりもしたのかな。そういうのもあって、両親も一応認めてくれた。
高校卒業後は、ひよこ鑑別師養成所のある名古屋へ。養成所っていうのが、当時全国の中でも名古屋にしかなかった。山形から名古屋に行き5か月間、ひよこの扱い方から座学、色々と学んだ。そして、5か月後には地元に1番近い研修先に回され、それが岩手県小岩井農場。このご縁があって岩手での生活が始まり、18歳の9月から2年弱研修をさせてもらった。

社会人時代
イタリアでのひな鑑別師修業時代について教えてください

小岩井農場での研修後、プロになるための試験、その後海外に行くための研修を受けてイタリアに行った。
場所はミラノ近郊のロンバルディア州ヴァレーゼっていう地方都市。そこから60キロも行くとスイス国境近くのコモと言う街があり、その辺りの下宿に住んだ。
イタリアへ行って直ぐはそんなに仕事もさせてもらえなくて。鑑別するスピードも遅いし、万が一にも間違えてはだめだし。何より日本と違って捌く量が違う。日本の10倍もの数をこなさなければならない。そんな感じで始まったから、首は痛いわ手も痛いわ…。でも、1ヶ月くらいで慣れちゃうんだよね。そうしたら、お給料も同じくらい貰えるようになった。結局は頭割りだから、5人でその数やったら5等分になる。
結局イタリアでは1年半働いた。お給料も結構良かったのもあったし、コモという街にはイタリアブランドのアウトレットのお店が結構あって、アルマーニのお店にはよく行ってたなぁ。全身アルマーニとかね、21の若造がよ(笑)アルマーニの良さなんて全く分かってないのにね!
色々あって(働き方なども含め)、ベルギーに異動願いを出してそれが承諾されたから、1度帰国したんだよね。当時お付き合いをしていた彼女と一緒に行く予定もしていたから。妻帯者だと、税金が安いというのもあったし。だったんだけど、彼女の方から「やっぱり行きたくない」と言われてしまって。まぁ、俺が1年半イタリアに行って待たせていたのもあったからね。その時に色々と考えたんじゃないのかな。で、自分もベルギーに行くのを止めた。ただ、いざ日本で同じようにひよこで仕事をしようとしても働けないのよ。ポストが無くて。定年もない仕事だから。そこで、盛岡の駅前のホテルのホールや飲食店で働いた。元々料理が好きだったから、ホールだけじゃなくてキッチンの仕事もやったけれど、保障がない状態で働いていたから、それも良くないなと思ってそこからハローワークに行って、そこで見つけたのが志百家で、入社した。1年ほど働いていた頃、以前の職場でお世話になった方から電話が掛かってきて。”独立するから一緒にやらないか”って声を掛けてくれたんだよね。そこでは3年程働いたかな。
そこを辞めることになったのが、まぁ今の奥さんと付き合っていたのがバレて、強制的に志百家に戻ることにね(笑)戻った後は営業として働いた。で、そこからが商工会さんとの繋がりが始まるわけなんだけどね。志百家では6年ほど働いて、2人目の子どもが生まれた辺りに辞めて独立したんだよ。今年の6月で丸10年になるね。

商工会青年部に入部されたきっかけを教えてください

㈲関添食品工業の斉藤宏さんが青年部長をやっていて、志百家の営業時代に知った。宏さんが部長の時は、特に自分は何もしていなくて次の部長である㈱小山田電業の小野寺孝司さんの時に幹事をやって。その後、百花の髙橋和重さんの時に副部長。最初は俺も余り青年部の活動に参加していなかったし、活動自体も今みたいに活発ではなかった。でも、東日本大震災がきっかけで他の市町村の青年部会議などに参加して、繋がりが広がり多くの出会いがあって、今に至っている。

青年部副部長時代、1番の思い出や苦労,今の事業にどう活かされているか教えてください

苦労ってあんまりしてないかもしれない。
ただ、副部長をやろうって決めたのは震災があったから。震災後、すごく自分の中でモヤモヤとした気持ちがあって。青年部として、もっと何かできるんじゃないかと。その気持ちを、当時の部長だった小野寺孝司さんにぶつけたことがあった。震災後、滝沢としては何もやっていない状態だったから、宮古市でなにか活動をしたいっていう思いもあったしね。結果的に、青年部での繋がりのあった山田町でできたんだけど。そこからまた、他の市町村ってなっていったんだよね。
青年部の主張発表大会の発表者も、皆がやりたがらないから「やるっ!!」って言ってたね。輪番制だったから、そこで揉めるとかなかなか決まらないのも嫌だったからさ(笑)

青年部活動
今後力を入れていきたいことや目指していることなどはありますか?

10年近くひよこ鑑別師の仕事は空いていたんだけれど、ひよこの仕事が戻って来た。欠員が出て、小岩井の方から声が掛かり久しぶりではあったけれど、感覚は鈍っていなかった。
事業割合としては、弁当屋とひよこ鑑別師の仕事がちょうど半々。
お弁当屋の方も固定客がついてくれてね。コロナがあってから、イベントなどが軒並み無くなってしまったけれど、それでも毎日のお客さんはいるし、時々大口の注文もあったりするから、数字で見ると本当に半々。
売り上げを上げたいのは・・・ひよこの方かな(笑)ひよこ鑑別師の仕事1本でできたらなという思いはあるけれど、鳥インフルエンザも出てきているから難しいんだよね。この鳥インフルエンザって、今自分が取引している業者さんから出ていなかったとしても、別の場所で出てしまうと出荷自体が止まってしまう。1人リスクヘッジでもないけれど、二刀流でやっている方が今は事業としては良いのかなと思っている。

佐藤代表個人が目標としていることなどはありますか?

子どもが自立して大人になるまでの過程で、子どもの成長に関わっていきたいな。
子どもが小さい時、その居場所に関しての係りがとても重要で、大切だっていう思いがあって令和元年に「NPO法人こくぶん学童クラブ」を立ち上げた。
いま、学童の先生の成り手が中々居ない。収入面を含めた待遇や、環境の整備もしながら様々やらなければと感じている。例えば、ここの学童を出た子が将来自分も同じように学童の先生になって、ここに戻って来たいっていう、そういう環境ってとても大事なわけで。そういう環境型と言える仕事が、保育園だったり学童といった職種ではまだ確立されていないのが現状だから。そこを変えていきたい。
保育園も幼稚園も、小学校も学童も、見ている子どもって同じでしょ?その地域の子ども達を見ているんだから。教育委員会と児童福祉課の高い壁をねぇ、少しずつ滝沢から崩せるといいんだけどなぁ。自分が今小学校のPTA会長としても取り組んでいる内にね!だからかな、辞められないんだよね(笑)
だからさ、商工会青年部も子ども連れての会議をOKにすれば良いんだよ!
今の時代、両親共働きは当たり前だし。俺、実は青年部の役員時代に、子どもを連れて参加してたんだよ。奥さんは「私が家で子どもを見てるからいいから」って言うんだけど、それは違うって思って。青年部は子育て世代がやっぱり多い。だから当たり前に、連れてきていいじゃんっていう雰囲気を常任委員会で作りたかった。こういった大人の社交場に、子どもを連れていくのはタブーだっていう考えが無くなって、当たり前になっていったら最高だね!

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