たきざわのひと takizawanohito
File 003
株式会社 栄建
白澤 仁
File 003
株式会社 栄建
代表取締役
白澤 仁
滝沢市商工会副会長
公開日:

はじめに

「Jump!」
一人ひとりの向上心が自らを豊かにし 企業を育て まちの未来をつくる

私たちは屋外広告業の登録業者として街の景観や地域性、そしてお客様の声を大切に様々な背景でのサインを企画・製作・施工しています。
より潤った地域社会を目指すとき、企業と地域の相互関係は決して欠かすことの出来ない繋がりのひとつであります。
住みよい街を創るには企業が発展し貢献する。企業が変わるには従事する人間が仕事に対する向上心を持ち、企業の潤滑油となっていく。
栄建は一人ひとりが向上心を持ち、お客様のニーズに応えたサインを提案させていただきながら住み良いまちづくりに貢献していきます。

■設立年月日:昭和58年10月
■従業員数:15名

INTERVIEW

どのような子ども時代を過ごされてきたのか、お聞かせ下さい

生まれは盛岡の神明町。
元々家が看板屋だったわけではなく、父親が今の岩手県交通のバスの整備士、母親はバスガイドをしていた。退社して、いろいろと商売を始めるんだけれども、その流れで千葉県の四街道へ(2歳の時に引っ越し)。幼少期の5年間を関東で過ごして、小学校1年生の夏休みの時に盛岡に戻ってきた。転校先は盛岡の山岸小学校だったけれど、ここも小学校2年生の12月まで。家業となる看板屋のようなことは、盛岡(山岸)に戻って来た時から始めていて、滝沢に家を建てるという事になり、小学校2年生から滝沢第二小学校に。
家から学校までは2.3キロ。登校時は真っ直ぐ向かったけれど、下校時は通り道に岩大農学部の農場があり、桑の実があって。蚕の実験か何かをしていたんだろうね。そこに忍び込んで、桑の実を白い帽子いっぱいに取って帰ったら、その白い帽子が赤くなっていて(笑)他にも、アケビを見つけたら必ず採って食べたし。でもやっぱり何が思い出かって言ったら、その通学路の行き来がすごく楽しかった。
今はスキーの授業が終わると、親が学校までスキーを取りに行って持ち帰るんだけど、昔は「自分達で持って帰れ~」って言われた。スキー靴から何からリュックに詰めて、スキー板も“ガチャ”っと取り付けるプラスチックのペグにストックも一緒に付けて。だけど、当然持って帰ることはなくて、履いて帰るよね。しかも、滝二小は高い所にあるから、田んぼを滑ると天然のジャンプ台になるんだよ。だから毎年スキーを持って帰るのが楽しみで、楽しみで!今みたいに住宅も無かったから、ああいう地域だからこそ自然と戯れながら過ごしてきた。

白澤 仁
小学校時代のご自身を一言で表すとどのような人でしたか?

目立ちたがりというか、やりたがり。学級委員長とかは当たり前。だけど、小学校5~6年生の時に、『やりたいという思いだけじゃなくて、人の信用がないと上には立てないんだよ』ということを担任の先生が教えてくれて、そこで今までやりたい放題やってきたけれど、それじゃダメなんだという事に気が付いた。そこからは児童会長をやるにしても、周りから認めてもらったから出来るようになったんだと思う。
基本的に「やって」って頼まれるとやってしまうんだけれども、、余りにも猪突猛進すぎて、他の役員が付いてこれなくて大変だったこともあった。(今の白澤社長からは想像がつかないです。)本当?あぁ~大人になったなぁ(笑)
実は、プロフィール的にも猪年で牡牛座なの。もう、前しか見ないで走って行くタイプだから、そういうところは多々あるなぁと思っていたけれど、お陰様で丸くなりました。少しね。
中学校時代は、最初は野球部。でも練習をしている内に野球肘になってしまい、顧問が、“野球部は人数が多いしバレー部で人が居なくて困っているから、バレー部行くか?”って(笑)ちなみに野球部から3人バレー部に移ったの。3人しかいなかったバレー部に3人入ったから、ようやく試合ができるようになった。そういう訳で、1年生の途中からバレー部に編入。そこでもやっぱりキャプテンをやって、県大会へいくことはなかったけれど、それでバレーボールの魅力を知り、高校へ行ってもバレーを続けた。

白澤 仁
高校時代に熱中したことはありますか?

高校は、盛岡北高に。近くがいいなって(笑)自転車通学で、雪でもチャリ(自転車)。
中学校までは、家で勉強をしなくても、なんとなく出来ていた。当時の白百合テストという外部模試を受けても、8割近くは取れていたから、学年でも20位以内をキープ。こういう性格だから生徒会長もやっていたよ。だから、勉強をなめていた。高校に入ったらそんなことはなかった。“うわぁ、分かんねぇ”ってなってね。そこで、“しょうがない、部活やるか!”って(笑)バレー部の他にお昼休みは合唱サークルに。お昼に集まって練習していたら、音楽の先生に皆でコンクール出ないか?と言われ、久保高校(現在の盛岡誠桜高校)と合同で練習することになった。当時は女子高だったから“マジで??”って一気に気合も入り、練習を頑張った(笑)
後は、放送委員会の委員長も。文化祭のバンドとかコンサートの仕込みと、放送関係が担当だった。それまでの昼の放送は、音楽をただ流していた。でも、自分は委員長になってから、放送委員会の女子生徒をパーソナリティにし、昼の情報番組みたいな企画を作って始めた。月~金曜日まで、各曜日の担当を決めて番組名も「ライムライト」って決めて。確かチャップリンの映画にこのタイトルの映画があって、その意味が良かったからだったかな。自分はミキサー担当で、音を低くしたり合図を出したり、音楽のリクエストも取ったりして曲をかけていた。当時だと…レベッカとかBOOWYもあったし、尾崎豊。ヘビメタのリクエストもあったから、X-JAPANは当然あったし、LOUDNESS(ラウドネス)とか。パンクも流行っていたね。THE BLUE HEARTSとか。自分自身はアル中(ALFEE中毒)だったけど。

高校卒業後はどの様な道に進まれたのでしょうか

大学は、仙台の東北工業大学へ。キャンパスが八木山にあって、入学してすぐ「GWにバイトしないか?」って誘われて。それが、東映系のキャラクターショーのアクターのバイトだった。当時、19歳。元々ヒーローものが好きだったのもあったし、小学校の卒業文集のなりたい職業の欄に“正義のヒーロー”って書いていた。そこからはまり、結局そのまま社員になり、26歳まで7年間続けた。なので、後半のPTAの話にも繋がるけれど、子どもが何百人いようが自分には、知っている景色なんだよ。だから全く緊張しない。「じゃあな!」って言葉や身振り、立ち姿もヒーロー立ちになってしまう(笑)逆に、普通に立つっていうのが意識しないと分からない。職業病かな(笑)デパート、遊園地、住宅展示場とかで披露して、年に1回の興業で会館の大ホールで行う“スーパーヒーローフェスティバル”。ステージに足場を作って、何回も練習を重ねて、お金を頂戴して皆さん(お客さん)にお見せする。そこで骨を折ったこともあったね。アクションをやっている本番中に。“バキっ”っていう音が聞こえた。やってしまったなと思って、もう動けないのも分かったから、その時戦隊もののレッドを着ていた俺は、怪獣(相手役に)掴みかかる演技をしながら「骨折れた!」って伝えて(笑)ステージの上で。でも相手も「分かった!今そっち(ステージ袖)に投げるから、とりあえず倒れろ!」って言ってくれて。怪獣に倒された振りをして、ステージ裏に避難したことも。
そんなことをしている内に、24歳の時に初めて車を買ったの。「さぁ、誰を乗せようかな?」って思った時に、その会社でアルバイトをしていた女の子に、「一緒にドライブに行かない?」って、家電に電話して親が出て焦った(笑)。そうしてデートに誘ったのが、今の奥さん。ちなみに奥さんは、アンパンマンとかセーラームーンとかのアクターだった。だから今でも、着ぐるみのお願いがあると、何十分と着ていられるの、慣れているからね。奥さんは全然辛くないの。だから着ぐるみの中に入ると、楽しくてなかなか帰ってこない(笑)

白澤 仁
大学卒業後は家業を継がれたのですか?

アクターをずっとやっていたかったけれど、家業が看板屋さんなので、将来的なことも考えて、26歳でアクターを引退。
その頃、イベント等でお世話になっていた看板屋さんにお願いして、仙台で3年間看板の修行をして岩手に帰ってきた。その当時お付き合いしていた今の奥さんも連れて。「結婚する」と伝えて。家業である看板屋の従業員の皆さんからも「そろそろ社長(白澤さんのお父様)も歳だから、早く帰ってきて手伝ってほしい」とも言われていたから。

29歳で帰郷後、家業の後継者としてどのような30代を過ごされたのでしょうか

看板組合の青年部とかにも顔を出すようになり、業界の先輩方にもまれながら学ばせてもらった。そんな時に、「盛岡青年会議所に入ったらどうだ?」と声をかけてもらって、31歳の時に入会した。元々やれと言われればやってしまう性格だから、やり過ぎてしまう。頑張りすぎてしまう。「白澤ならこれできる」って言われてやっていたら、どんどん役割が増えていって。37歳で、理事長をやることに。1年間、理事長を務めた経験で、今までなら猪突猛進に一気に行くところを、街づくりを行うにしても、社会貢献にしても、商売をやっている人達、異業種の方々を1つにまとめてやっていかなければならないというのがあり、コミュニケーションスキルの向上と、ネットワーク作りと言うのを学んだ。この経験がなかったら、今の自分はいなかったと本気で思っている。
一歩引いて聞くというのも、この時の経験からだね(笑)

40代はお子様4人のPTA活動に情熱を注いだと聞いております。PTA会長も務めた16年間は、ご自身にどのように影響したのでしょうか

自分の中では、故郷であるこの滝沢に帰ってきて、自分が卒業した小中学校のPTA会長を務めていることが、すごく楽しくて。子ども達4人が通った小学校の16年間。自分が通ったよりも長く、母校にお世話になった。だからこそ、親しみとか愛着がとてつもなく増し増しに。
卒入学の挨拶は、入学式は保護者に向けて。卒業式は子ども達に向けて自分の言葉で話してきた。「早寝早起き朝ごはん」と「徒歩登校」ってありきたりな言葉だけど、PTA会長を務めたのが10年だから、大事なことを全学年の全ての保護者に話せたのが満足だった。親が「あぁ~会議長くて疲れた」なんていう姿を見せていたら、子どもにとって学校や教師との関りが「つまらないもの」として映ってしまう。そうなると、子ども達も学校が嫌になってくると思う。それを、学校で笑いながら先生と話し、何でも楽しくやっている親の背中を見せる。それをずっとやってきたのもあってか、我が子達も学校と共によく育ってくれたなぁと感じている。うまく利用したな自分って思ってるよ(笑)でも、こういうコミュニティを家庭教育に活かすのが、PTAの本懐だと思うんだよね。
行政(文科省や教育委員会も含めて)は昨今、“学校は地域、地域は学校”と謳うようになてきて、地域で活動する経営者として、PTAを通して小中に関わりを持つ事で、自治会長や町内会長、スクールガードや民生委員など、地域を支えてくれている方々との繋がりが出てくる。それが、1~2年しか関わらないと、分からないまま終わる。でも、10年もやっていると、相手から声をかけてくれる。色んなことを相談されたりもする。要望が出てきたりして、地域とのコミュニケーションの一角に、会社としてだけではなくPTAとしても携われたのは良かった。地域における自分の立ち位置みたいなものが明確になって、これは仕事をする上でもとても有難いこと。
PTAに対してはすごく保護者のネガティブなイメージがあるけれど、「PTAが何をしてくれるの?」ではなくて「PTAを通して自分が何を出来るかを考えよう」と、保護者には伝えてきた。それは商工会も一緒で、「商工会が何をしてくれるの?」ではなく「商工会を利用して自分が何ができるか考える」というのが、経営者として重要な思考のひとつと思う。

白澤 仁
社長に就任して8年になる。社長として心がけていることはありますか

父親が創業者で、ワンマン社長でやってきた会社だったから、父親が右、左って指示を出さないと社員は動かないし、逆に父親も全てを把握していないと不安で仕方がなかった。自分が現場に出たりもしていたから、多少は任せていた部分もあったけれども、社員が増えて、自分達で考えて動くようにならないと、1つの組織として伸びていかない。だから、全部自分が指示を出すのではなくて、社員には「で?」って聞くようにしている。“社長、これこれこうなんですけど”って言われたら、「それだったら、これこれこうして」って自分が指示を出すのではなく、「んで?」って。「どうするの?」とも言わないで、「で?」って聞くと最初は黙るの。でもそれが最近は、社員が「ここがこうだから、こうします」って言ってくるようになって、自分も「それでお願いします」って。最終的な判断は自分がしなければならないけれど。
創業期から成長期の途中。子ども4人の誰が継ぐとかは全く分からないけれど、会社を渡す時に、自分がどういう風になっていたいかなぁ、どういう会社になっていて欲しいかなぁというのは、今でも常に考えている。この前の岩手県革新計画に挑戦したのもそうだし、こういう設備があってこういう仕事の方向に持っていっていたら、今後10年、20年は耐えていけるかな?とか。なかなか難しい事だけど、もっと明確なビジョンを周囲に発信していきたい。

今後、御社が力を入れていきたいことを、お聞かせください

看板屋という職業が分かりにくい。塗装屋、足場屋、電気屋とかは、誰でも仕事内容がなんとなく分かるよね?でも、看板屋って言っても「・・・はぁ・・・」っていう反応になる(笑)。それでも、経済活動がそこにある限り、“看板”という仕事はデジタルなり、アナログなり必ず必要としていただけるものであり、街を活気で彩るバロメーターであるとも考えている。その店舗が、その事務所が、事業所が、何を必要としているのかを的確に与えられた空間へと表現する。そんな仕事を楽しくやりながら誰もが「看板屋になりたい!」と思わせるようなPRもし、業界を盛り上げ滝沢で100年続く企業に出来たら素敵だと思う。